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建築

「 仙台城 」関ヶ原の合戦後伊達政宗によって築かれた城

奥州の覇者となった伊達政宗が領国支配の拠点として築城した 仙台城 。

茨城県の佐竹氏や福島県の蘆名氏などとの戦いに勝利した伊達政宗は奥州の覇者となっていました。
1590年、豊臣秀吉が命令に従わない北条氏を征伐するため関東に大軍を送り込みます。

秀吉の圧倒的力を見て、政宗は秀吉に従います。
政宗は秀吉の命により領土を大幅に削られ、山奥の岩出山城に本拠を置くことを余儀なくされました。
1600年におきた関ヶ原の戦いでは、政宗は徳川家康に味方します。

関ヶ原の戦いの後、政宗は家康の許可を得た上で居城を仙台に移しました。
政宗が仙台に居所を移した理由は、交通の便のよさにあったと考えられます。
政宗は仙台市の中でも、広瀬川によって守られた青葉山に築城することを決定しました。

仙台城 (青葉城)』は同時代の城としては珍しく、最初から天守閣がない城でした。
そのかわり、自然の地形を最大限に活用します。
本丸東側は広瀬川に臨む断崖、西側は山林、南側は守りやすい竜ノ口渓谷、巧みに自然地形を利用した堅城だったのです。

仙台城 (青葉城)』の建物は、焼失や破壊などで残っていません。
しかし、本丸までの道を歩くと『 仙台城 (青葉城)』が簡単に攻め落とせない城だということが体感できるでしょう。

政宗をはじめ歴代の仙台藩主が眠る瑞宝殿と経ヶ峯歴史公園

仙台城 (青葉城)』から広瀬川を挟んで向かい合う経ヶ峰。
この場所には政宗をはじめ、歴代先代藩主の墓所があります。
政宗の死後、二代藩主の伊達忠宗は遺言に従って経ヶ峰に墓所を建設し瑞宝殿と名付けました。
安土桃山時代の壮麗な建築様式で建てられた霊廟は、1931年に国宝に指定されました。
しかし、第二次世界大戦中の仙台空襲ですべて焼失してしまいます。

戦後直後の混乱期、周辺の山々の木々が薪炭材の確保や農地への転用の為に伐採されていく中、経ヶ峯は伐採を免れることができました。
仙台市は経ヶ峯保存のため、周辺の土地を伊達家から買い取ります。
1974年、焼失していた瑞宝殿再建工事が開始、併せて発掘調査が行われました。
調査では戦国時代の甲冑や美しい装飾が施された太刀、黒漆に金の蒔絵が施された文箱などが見つかりました。
また、この時に出土した政宗の遺骨から政宗の身長は159.4㎝、血液型はB型、面長で鼻筋が通った容貌だったことがわかっています。
瑞宝殿や隣接する瑞宝寺などを含むこの周辺は経ヶ峯歴史公園として整備されていますよ。

伊達家の菩提寺にして、いざという時の詰城ともいわれる松島瑞巌寺

仙台市郊外、日本三景の一つに数えられる松島に伊達政宗が造営したのが瑞巌寺です。
もとは、円福寺という天台宗の寺院で鎌倉時代に臨済宗になったといいます。

1600年、関ケ原の戦いが終わると、伊達政宗は『 仙台城 (青葉城)』や城下町の整備とあわせて、円福寺の建立に着手します。
円福寺再興に取り組むきっかけは、幼少期からの師である臨済宗の僧、虎哉宗乙による勧めでした。
伽藍を再興した政宗は寺の名を瑞巌寺と改めます。
桃山様式でつくられた本堂などは国宝に指定される貴重なものです。
瑞巌寺は海と山に囲まれた要害の地に作られているため、政宗の隠し砦ではないかともいわれます。
江戸時代、一国一城令が出されていて仙台城以外の城をつくることができなかったことを考えると、いざという時に城として転用できるよう、政宗が考えた可能性はありますね。

仙台城 はどこにあるの? 仙台城 へのアクセス方法や施設情報~まとめ~

《住所》
・宮城県仙台市青葉区川内1番地

《アクセス》
・仙台駅から仙台市営バスにのって20分で「仙台城跡」バス停
・バス停から徒歩5分

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