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「 山形城 」最上義光が築いた姫路城よりも広い全国有数の規模の城

弱体化していた最上氏を復権させ、家督争いに勝利し出羽を統一した最上義光

山形城 』を築城した最上義光(もがみ よしあき)は、現在の山形県全域にあたる出羽国南部をほぼ統一した戦国武将です。(最上家11代当主)
義光が生まれた最上家は、室町時代の三管領の一つ、斯波家の分家にあたる名門でした。

しかし、16世紀前半には伊達氏の影響下に置かれます。
1542年から1548年まで繰り広げられた伊達氏の内紛である天文の乱をきっかけとして、義光の父である義守は伊達氏から独立しました。
その後、父との争いに勝利した義光は出羽南部の統一を図ります。

義光は、天童氏や寒河江氏、大宝寺氏などとの戦いに勝利。次々と版図を広げます。
義光の妹である義姫(保春院)は、伊達輝宗(政宗の父)に嫁ぎました。

そのため、義光は伊達政宗の叔父ということになります。
しかし、伊達政宗(伊達家17代当主)が義光の妻の実家である大崎氏を攻撃した時は、大崎氏に援軍を派遣します。
この時の伊達氏と最上氏の争いは、義姫が両軍の間に駕籠を置かせて停戦を懇願したため、両者とも和議を結び撤退しました。

1590年に豊臣秀吉が小田原攻めを行うと、義光は豊臣方としてはせ参じます。
その結果、義光は秀吉から24万石の所領を安堵されました

ピンチはチャンス。上杉軍を撃退し、最上氏の領土が拡大した慶長出羽合戦

1600年、関ケ原の戦いに呼応する形で東北でも戦いが始まります。
この戦いを「慶長出羽合戦」といいますね。
東北地方の諸大名も西軍と東軍に分かれて戦いました。
西軍の主力は会津の上杉景勝。東軍の主力は陸奥の伊達政宗と出羽の最上義光です。
家康が西に向けて軍を転じたため、上杉軍は会津の北にあった最上領に向けて全力で侵攻してきます。
上杉軍を率いたのは大河ドラマでも有名な直江兼続
上杉軍は最上勢の抵抗を排除して『 山形城 』に迫りました。

攻める上杉軍はおよそ25,000人、対する最上勢は7,000人に過ぎません。
それでも、劣勢の最上軍は各地の城で徹底抗戦し、上杉軍に出血を強いました。
上杉軍は『山形城』の最終防衛ラインともいえる長谷堂城に迫ります。
直江兼続は圧倒的な兵力差を活かして長谷堂城を攻めに攻めました。
しかし、長谷堂城を守る最上軍も必死です。ここが落ちれば『 山形城 』まで遮るものが何もないからでした。
「長谷堂城の戦い」が始まっておよそ2週間後、関ケ原での西軍敗北の知らせが両軍にもたらされました。
上杉軍は最上領から引き上げますが、最上軍は今までの仕返しとばかりに攻めかかります。
しかし、直江兼続の冷静沈着な指揮により、上杉軍は無事撤退することができました。
義光は、関ケ原の戦い後、戦いの功績が認められ、豊臣政権や上杉軍に奪われた庄内地方を取り戻します。

『 山形城 』の構造と復元

山形市中心部にある霞城公園
この公園は最上義光が築城した『山形城』の跡地に造られました。
山形城 』は本丸・二ノ丸・三ノ丸からなる平城です。

義光の時代には石垣はほとんど使われていませんでした。
義光時代の『 山形城 』は、土塁と堀に囲まれた全国有数の規模を誇る城です。
現在残る石垣は、最上氏が改易された後に山形城主となった鳥居忠政が整備したものでした。
明治維新後、『 山形城 』は陸軍の駐屯地となります。
この時、老朽化していた櫓や御殿は破壊され、周囲の堀の大半が埋め立てられました。
ちなみに、外郭まで含めた『山形城』の敷地は江戸城や大坂城にも匹敵するもので、巨大な平城だったことが伺えます。
現在、『 山形城 』では建物の復元が行われています。
1991年には二ノ丸東大手門、2006年に本丸正門にあたる一文字門にかかる大手橋が復元されました。

『 山形城 』はどこにあるの?『 山形城 』へのアクセス方法や施設情報のまとめ

《住所》
・〒990-0826 山形市霞城町1番7号

《アクセス》
・JR山形駅から徒歩10~15分。
・ベニちゃんバス バス停「霞城公園前」から5分で東大手門に到着
・山形自動車道山形蔵王ICから約15~20分

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