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建築

「 多賀城 」東北地方における朝廷の最前線基拠点

朝廷による東北地方を征服するための重要拠点として建設した『 多賀城 』

7世紀から9世紀、時代でいうと飛鳥時代から奈良時代、平安時代の初期にかけて、朝廷は東北地方に積極的に進出しました。
朝廷の進出は軍事力を伴うもので、現地に住んでいた「蝦夷」と呼ばれる人々を征服する活動となります。
こうした朝廷は東北地方征服を「蝦夷征討」とよびました。
飛鳥時代の征服活動は日本海側を中心に行われます。
奈良時代に入ると朝廷の勢力は太平洋側にも及びました。

720年、東北地方で蝦夷の大規模な反乱が発生すると朝廷は大軍を派遣して鎮圧、朝廷軍は引き上げましたが、724年に東北地方の拠点として多賀柵、のちの『 多賀城 』を築きました。
多賀城は東北地方における最前線基地であると同時に、現在の県庁の役割を持つ陸奥国府としても機能します。

9世紀に坂上田村麻呂が前線を北に押し上げたため、『 多賀城 』は最前線ではなくなりました。
しかし、軍への補給や政治の中心としての機能は維持し続けます。
11世紀に起きる前九年の役後三年の役でも多賀城は重要な役割を果たしました。

奈良時代に刻まれ、多賀城入り口に設置されていた重要文化財「 多賀城 碑」

江戸時代初期、多賀城について記された石碑が発見されました。
発見状況などはわかっていませんが、『 多賀城 』について記した石碑だとのことで当時から話題になります。
江戸時代前期、『大日本史』編纂のため各地の家臣を派遣していた徳川光圀は、多賀城碑が苔むした状態で放置されていることを知り、先代藩主伊達綱村に碑文を保護する覆屋の建設を勧めました。
光圀の提案を受け、仙台藩は覆屋を建設、現在多賀城碑は小さな覆屋の中に入れられ保護されています。

碑文には724年に『 多賀城 』が大野東人によって建設されたことや藤原朝狩が762年に多賀城を改修したことなどが記されています。
明治時代には偽作説が強く主張されましたが、1963年の発掘調査などから、多賀城で8世紀半ばに大規模な改修工事が実施されたことなどがわかり、碑文の信ぴょう性が上がりました。
現在、 多賀城 碑は国の重要文化財に指定されています。

1100年以上前に東北地方を襲った「貞観地震」。その時、 多賀城 は?

2011年に東日本大震災が発生、多くの犠牲者を出したことは記憶に新しいと思います。

今から1100年以上前に、東日本大震災と似た被害を出した大地震がありました。それが、貞観地震です。
地震の規模は少なくともマグニチュード8.3以上あったのではないかと推定されます。
当時のことを記した歴史書『日本三大実録』によると、地震発生は869年5月26日、大地震で『 多賀城 』の建物が倒壊。多くの人が家屋の下敷きになるなどして亡くなったといいます。

『日本三大実録』では地震発生後、津波が多賀城周辺を襲う様子を「驚濤(驚くほど大きな波)」が多賀城下にせまり、あたり一面海のようになってしまったと表現しました。
東日本大震災の映像を見た後でこの表現を見ると、あながち誇張ではないことを実感できますね。

『 多賀城 』はどこにあるの?アクセス方法や施設情報~まとめ~

《住所》
・宮城県多賀城市市川城前

《アクセス》
・国府多賀城駅から徒歩10分

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