ぶらり散歩で身近な日本史

「 久保田城 」佐竹義宣が築城

関ヶ原の戦い後に茨城から秋田に転封され、『 久保田城 』を築城した佐竹義宣

1570年、佐竹義宣は常陸国太田城で生まれました。
父は、鬼義重と恐れられた佐竹義重。
1586年から1590年の間に父から家督を譲られたと推定されます。
1590年といえば、豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻撃した小田原征伐の年。

佐竹義宣も小田原攻めに従軍します。佐竹氏は豊臣傘下の大名として領地を保証されました。
1600年、関ヶ原の戦いで佐竹義宣は態度をあいまいにします。

1602年、義宣は徳川家康から秋田転封を命じられました。
それまでの常陸一国から比べると大幅な減封です。
家康からすれば、江戸の近場で1万人以上の兵力を動員できる大名を放置できなかったのではないでしょうか。
秋田に移った佐竹義宣は1603年に『久保田城』を築城。
久保田藩の基礎を固めました。

戊辰戦争時、新政府側についた久保田藩は庄内・盛岡藩と秋田戦争を戦った

幕末、仙台藩を中心とした東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結成し新政府軍に対抗しようとしました。
久保田藩も当初は奥羽越列藩同盟に加盟しましたが、久保田藩内には尊王派が多く、藩主の決断で列藩同盟を離脱します。

しかも、仙台藩から派遣された列藩同盟の使者を斬首したことから列藩同盟の庄内藩・盛岡藩と戦うことになりました。
久保田藩・新政府軍と列藩同盟の一連の戦いを秋田戦争ともいいます。
列藩同盟軍の中でも特に庄内藩の軍勢は強く、久保田藩は城下周辺まで押し込まれました。
しかし、久保田藩は新政府軍の支援を受けて体勢を立て直します。
また、新政府軍の北上により庄内藩が降伏、盛岡藩も秋田県北での戦いで破れ、後に降伏します。
そのため、『久保田城』が戦火にさらされることはありませんでした。

佐竹義宣が築城した『 久保田城 』の構造と平成になって再建された建物

久保田城 』は現在の秋田市内にあります。
石垣はほとんど用いられず、主に堀と土塁を用いて作られた城でした。
天守閣は最初から建造されていません。
自然に形成された台地上にあるので、当時は、周囲を見下ろすことが可能だったでしょう。
江戸時代を通じて久保田藩佐竹氏20万石の居城として栄えました。
久保田城 』には江戸時代の建物がほとんど残っていません。
というのも、1880年の火災で建物のほとんどが失われたからです。
城下町も火災後の区画整理などのため、面影を残している場所は少ないです。
火災で焼けず唯一残っている『 久保田城 』の建物は足軽組頭の待機所だった御物頭御番所です。
1987年、『 久保田城 』の建物再建の機運が高まり、本丸北西隅にあった御隅櫓を復元。2000年には本丸表門を復元しました。
現在、久保田城跡は千秋公園として、市民の憩いの場となっています。

久保田城 』はどこにあるの?久保田城へのアクセス方法や施設情報のまとめ

《住所》
〒010-0876 秋田県秋田市千秋公園1-39

《アクセス》
JR秋田駅から徒歩10分

《料金》
千秋公園内の散策は無料

詳しくは秋田市のHPでチェックしてみてくださいね。

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