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「 今井城 址」舌状台地にある青梅の城址

『 今井城 』って、一体どんなお城なの?規模や構造について

東京都青梅市の閑静な住宅街にある、この『 今井城 址(いまいじょうあと)』は戦国時代に丘陵地を利用し築かれた、平山城(ひらやまじょう)という分類のお城です。

面積はおよそ8500㎡と小規模で、城の中心部となる本丸の部分と、曲輪(くるわ)と呼ばれる城の防御施設を並列に配置した、連郭式(れんかくしき)という構造で、城の東半分は西北両側に深い空堀と三方を土塁に囲まれた曲輪があり、西半分は土塁の無い曲輪で、南側を霞川という川が流れています。

それほど広い城址ではないので、じっくり見学しても30~60分ほどで全部回れますし、その上、空堀や曲輪の保存状態がとても良く、あまりお城に詳しくないという方でも、十分に雰囲気を楽しめます。

『 今井城 』にはどんな歴史があるの?

このお城は戦国時代初期の1480年ごろに、元々墳墓のあった場所に築かれ、その後1520年ごろに改修したと言われています。
代々、この土地の持ち主であった、今井氏(いまいし)という武家の一族の居城でした。

今井氏は小田原の北条氏の配下になったため、このお城は隣国の上杉謙信率いる、上杉氏に対抗するための重要な支城としての役割を担っていました。
そのため、1520年ごろの改修工事には北条氏が関わっているのではないかとも言われています。

なお、このお城の近くには勝沼城(かつぬまじょう)、藤橋城(ふじはしじょう)という2つの城もあるため、この場所が北条氏にとって上杉氏に対する重要な拠点であったことがわかります。

このお城はその後、廃城になるのですが、北条氏が上杉氏との戦いに勝利したため、役割を失い廃城になったとも、1590年に豊臣秀吉による小田原征伐で、北条氏が滅亡し廃城になったとも言われていますが当時の史料が残っていないため、どのような経緯で廃城になったのかについては不明です。

その後、昭和42年(1967年)に行われた発掘調査では、鎌倉時代後期の1312年から、1522年の戦国時代にかけての板碑や、開元通宝(かいげんつうほう)と呼ばれる銅銭が出土しました。
鎌倉時代後期にはすでにこの場所に人が住んでいたことがわかっています。
保存状態が良好であったため小規模ながら、青梅市の史跡に指定されました。

『 今井城 』城主の今井氏ってどんな一族?末路は解体された!?

この城の城主であった今井氏についてご紹介します。

今井氏は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて関東で大きな勢力を持っていた、武蔵七党(むさししちとう)と呼ばれる武士団の中の、児玉党(こだまとう)と呼ばれる一派に所属していた武家の一族であると言われています。
彼らは源頼朝の平家打倒に協力し、鎌倉幕府成立後は幕府の家臣である、御家人(ごけにん)の地位に就きました。
鎌倉幕府滅亡後、皇統が2つに分かれた南北朝時代に入ると、今井氏は後醍醐天皇率いる南朝側についたのですが、この混乱期の中、勢力が衰えて弱体化してしまいます。

戦国時代に入ると関東で大きな勢力を持っていた北条氏の配下になるのですが、北条氏の滅亡後は彼ら一族も解体され、その後どうなったのかはわかっていません。

『 今井城 』へのアクセス

《所在地》
東京都青梅市1丁目559-3

《交通機関でのアクセス》
西武鉄道池袋線・入間市駅から西武バスに乗車「金子橋」バス停下車、徒歩約5分
JR八高線・金子橋からタクシーで約5分

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