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「 藤橋城 址」も北条氏の支城も今は小さな公園

『 藤橋城 』の規模や構造について…

東京都青梅市の住宅街にある、この『 藤橋城 (ふじはしじょう)』は中世の時代に築かれたと言われていますが、史料がほとんどないため、築城時期や築城主、規模に関してはよく分かっていないお城です。
藤橋城 』は武蔵野台地の地形を利用して築かれた平山城(ひらやまじょう)で、低地からの高比は5~6mほどあります。
ちなみに平山城とは城の分類の一つで、丘陵地や平野の中にある、高い地形を利用して築かれたお城のことを指します。

開発のため、お城があった場所が整備されてしまったのと、史料が発見されていないことが相まって、このお城の全容はよく分かっていません。
現在残っているのは、城の中心部である主郭の部分と、その周囲の東西70m、南北60mの範囲に築かれた防御施設である曲輪(くるわ)、それに加え土塁と空堀の一部です。
ですが、残っている施設の大きさなどから、大きな外堀や、敵の浸入を阻むための丸馬出(まるうまだし)という施設、城内鎮護のための神社などを有した、約200m規模のお城だったのではないかと推察されています。

『 藤橋城 』は北条氏の支城だった?このお城の歴史について…

藤橋城 』の歴史ですが、前述したように史料がほぼ残されていないので、どのような歴史を歩んだかについてはよく分かっていません。
ですが、唯一このお城についての記述がある、江戸時代後期に書かれた、『武蔵名勝図会(むさしめいしょうずえ)』によると、戦国時代は平山越前守虎吉(ひらやまえちぜんのかみとらきち)という人物の居城であったということと、この人物は北条氏の北条氏照(ほうじょううじてる)に仕えていたという記述があります。

この記述から、このお城は北条氏の支城の一つで、平山一族の居城であったという推察がなされています。
1590年に豊臣秀吉の小田原征伐で北条氏が滅亡すると、このお城も落城し、廃城になったのではないかと言われています。
現在は青梅市の指定史跡になり、主郭のあった部分が公園として整備され、公園内は花壇とベンチが置かれ、休憩所のようになっています。

また城内にあったとされる、杣保神社(そまのほじんじゃ)の石碑があります。
公園の入り口がある南側から見ると、とくになんの変哲もない公園なのですが、反対の北側から見ると、周囲から不自然に高い位置にあるため、この場所が人工的に土を盛ってつくられたことがわかります。
ちなみにこのお城の近くには、今井城址(いまいじょうあと)、勝沼城址(かつぬまじょうあと)の2つのお城もあるので、こちらも回ってみてはいかがでしょうか。
いずれも戦国時代に、北条氏と上杉氏に縁のあったお城です。

先祖は武闘派で鎌倉幕府の重臣!平山一族について…

城主であったとされる平山一族は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、武蔵国(むさしのくに 今の東京都、埼玉県、神奈川県の一部)に大きな勢力を持っていた武蔵七党と呼ばれる武士団の一つである、西党(にしとう)の党祖、日奉宗頼(ひまつりのむねより)の一族であったと言われています。

日奉直季(ひまつりのなおすえ)という人物が東京都日野市平山に移住したことにより、以後、平山の姓を名乗るようになりました。

平山一族は1156年~1159年に起こった内乱である、保元・平治の乱(ほうげん・へいじのらん)に参加し、大いに活躍しました。
その後、1180年に伊豆国に流されていた源頼朝が平家打倒を掲げて挙兵すると、平山季重(ひらやますえしげ)ら一族は源氏側につき、数々の戦いで大きな手柄を立てました。
頼朝が弟の義経と合流した後は、義経の兵に加わるのですが、そこでも大いに活躍しました。
頼朝と義経の対立から、義経討伐のための「奥州藤原攻め」が開始されると、今度は頼朝側につき、そこでも大いに手柄を立てました。
これらの活躍ぶりから、鎌倉幕府が開かれると、季重は幕府の元老の地位に就き、頼朝の側近として政務を行っていました。
頼朝の死後は幕府から離れ、故郷の平山に帰り余生を過ごしたそうです。
その後の平山一族の足取りはよく分かっていませんが、室町時代は関東を統治する、鎌倉公方(かまくらくぼう)の配下に、戦国時代になってからは上杉氏の配下になり、後に、北条氏の配下になったと言われています。1590年に北条氏の滅亡とともに、平山一族も滅亡したとされています。

『 藤橋城 址』へのアクセス

《所在地》
東京都青梅市藤橋2丁目168

《交通機関でのアクセス》
JR青梅線【東青梅駅】から西武バス【入間市】行きに乗り、【藤橋】下車 徒歩約10分

《車でのアクセス》
圏央道【青梅IC】より都道44号線経由2km

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