上山城 (かみのやまじょう)は現在の山形県上山市にあった平山城で、別名、月岡城とも呼ばれています。
現在は月岡公園の園内にあり、堀や石垣が城跡として上山市の市指定史跡に指定されています。
上山城 の築城年はいつ?上山の地を奪還した武衛義忠によって築城!
上山城は、戦国時代の1535年に伊達氏からこの上山の地を奪還した武衛(上山)義忠によって築かれました。
もともとこの上山の地は南北時代から高楯城(たかだてじょう、上山城の西方約1kmの虚空蔵山にあった城、城主は上山氏)の領地内にありましたが、1508年に伊達氏の侵攻で高楯城は落とされてしまいます。
その後1535年に武衛義忠が伊達氏から城を奪還し、現在の位置に改めて築城したのが現在の上山城です。
しかし1580年に上山城は山形城主・最上義光(もがみ よしあき)の計略によって落とされます。
最上義光と言えば衰退していた最上氏を再興した人物でとして知られ、“奥羽の驍将(ぎょうしょう、強く勇ましい武将)の異名を持っています。
また、“奥州の独眼竜”伊達政宗の叔父としても有名です。
最上義光は上山城を攻略する際に城主・上山満兼(築城した武衛義忠の孫)の家臣である里見義近・民部親子に寝返り工作をして城を手に入れました。
以後は最上領の最南端の城塞として重要な場所となり、出羽国の統一や近隣の大名らと戦いました。
江戸時代には藩庁が置かれる!土岐氏によって整備された名城!
江戸時代に入ると上山城は、最上氏が藩主を務める山形藩の城になりますが、1622年に最上騒動(最上家の御家騒動、最上氏の改易)が起こると山形藩の藩領は分割されます。
この際に現在の上山市の地域は上山藩となり上山城には藩庁が置かれました。
藩主に明治維新までの間に5家16人が務め、中でも土岐氏の治世(2代、1628年~1691年)に上山城および城下町が大きく発展しました。
本丸には三重の天守、各所には櫓門があり近世の城郭が築かれ“羽州の名城”と呼ばれていました。
しかし、土岐氏の転封とともに天守は取り壊されてしまいます。これは幕府が警戒していたためと言われています。
現在の天守は1982年に二の丸跡に建てられた模擬天守で、内部は歴史資料館となっています。