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「 泉岳寺 」赤穂浪士が眠る寺

品川の高輪にある 泉岳寺 は、4月と12月赤穂義士祭で賑わいます。 赤穂義士とは、亡き主君浅野長矩の仇打ちをした赤穂藩の武士のことです。 その赤穂義士47名と主君浅野長矩の墓がある 泉岳寺 をご紹介します

僧侶の学び舎

泉岳寺の始まりは、徳川家康が幼少の頃に世話になった今川義元の菩提を弔うため、1612年外桜田(現在の千代田区)の地に創建したことによります。

1641年の大火事、寛永の大火によって創建時の建物は焼失してしまいました。その後徳川三代将軍家光が、赤穂藩の浅野氏を含む5人の大名に命じ、現在の高輪に移転再建しました。赤穂藩浅野家と泉岳寺の縁はこの時に始まります。再建当初は七堂伽藍で構成された大きな寺院で、諸国の曹洞宗の僧侶200名近くが参学していました。

泉岳寺 は青松寺、総泉寺から成る三学寮の一つとして曹洞宗の寺院のまとめ役を担うとともに、僧侶の学び舎の学寮でした。

第二次世界大戦の空襲により、山門・義士館以外は焼失していましました。昭和28年に本堂を再建し、徐々に復興を続けてきました。僧侶の学び舎の志は、現在も泉岳寺学寮で寺の務めをしながら学ぶ男子学生に引き継がれています。

泉岳寺|Found Japan

赤穂義士

時代劇や歌舞伎で有名な『忠臣蔵』は、徳川5代将軍綱吉の時代に、”田舎侍“とバカにされ怒った浅野長矩は江戸城の松の廊下で吉良上野介に切りかかりましたが、翌日そのお咎めにより浅野長矩は自害。大石内蔵助義雄ら赤穂藩の赤穂浪士47人が、主人である浅野長矩の仇討ちとして吉良上野介を討った後、切腹を命じられると言うエピソードです。
赤穂義士は、主人への忠義を讃えられました。泉岳寺には彼らの墓があり、参拝することができます。墓は、討ち入り前に自害した浅野氏の家臣・萱野重実の供養塔を含めて48基あり、義士たちは討ち入り後の預け先によってそれぞれ分けられ、並べられているのが特徴です。
他にも境内には大石内蔵助吉雄の銅像、首洗い井戸など赤穂義士所縁のものがあります。また毎年、討ち入り12月14日には義士祭が開催され、多くの参拝者が訪れます。

泉岳寺|Found Japan
泉岳寺|Found Japan
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本堂

旧本堂は第二次世界大戦の際、空襲で消失しました。現在の本堂は1953年に再建されました。
正面に掲げられている「獅子吼」の額は「ししく」と読み、お釈迦様が説法する様子を獅子が吼える様子に例えたもので、何事にも動じず大衆に向かって心理を説く釈迦の姿勢を表しています。
ご本尊は釈迦如来、他に曹洞宗の宗祖である道元禅師・瑩山禅師、また大石内蔵助の守り本尊である摩利支天(秘仏)などが納められています。

泉岳寺|Found Japan
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梵鐘

朝の坐禅時と夕方の閉門時に撞かれている梵鐘は、1913年に造られたものです。江戸から明治まで使われていた梵鐘は、現在ウィーンの国立民族博物館に所蔵されています。

泉岳寺|Found Japan

戦禍を逃れた講堂(旧義士館)

境内の中程にある講堂は1925(大正14)年に建てられました。明治初期の廃仏毀釈により、寺院は荒廃を期してしまいますが、煉瓦造りの義士館を創設し、宝物館として公開することで多くの人々が参拝に訪れるようになりました。しかし関東大震災により崩壊。
震災後に義士宝物館を再建し、第二次世界大戦の戦禍は逃れることができました。現在は1階が講堂として講座が開かれ、2階は義士木像館となっています。

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・所在地 東京都港区高輪2-11-1

・最寄駅  JR山手線「高輪ゲートウェイ駅」より徒歩7分・都営浅草線「泉岳寺駅」より徒歩3

・公式サイト 泉岳寺 https://sengakuji.or.jp/

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