ぶらり散歩で身近な日本史

「 箕輪城 」日本100名城の一つ長野業正の居城

山内上杉氏の没落後、『 箕輪城 』を拠点として上野を守り抜いた長野氏

戦国時代、関東各地も下剋上の嵐が吹き荒れていました。
室町時代に関東管領として勢力を誇った山内上杉氏のもとで西上野(群馬県西部)の諸豪族を束ねていたのが長野氏でした。
1512年、長野業尚が『 箕輪城 』を築城したといわれていますが、築城したのは業尚の子の信業だともされ、確定的ではありません。

現在残されている『 箕輪城 』は、のちに箕輪城主となった徳川家臣井伊直政による改修後の姿です。
本丸、二ノ丸、三ノ丸の三重構造の土塁の城です。

空堀を幾重にも掘り巡らせた複雑な構造の城でした。
空堀は場所によっては幅30メートル、深さ10メートルにもなります。
主家の山内上杉家当主、上杉憲政が北条氏康との戦いに敗れて越後に去ったのち、長野業正は在地の武士団である箕輪衆を束ねて北条氏や武田氏と戦いました。

上野を狙いたびたび攻め込んでくる武田信玄の軍勢と戦った長野業正

山内上杉氏が衰退すると、武田信玄が上野支配をねらって攻めこむようになりました。
西上野の諸豪族をまとめる長野業正は『 箕輪城 』を拠点として武田軍と何度も戦います。

1557年、武田信玄の嫡子、武田義信が13,000の兵を引き連れて『 箕輪城 』を攻撃しましたが、業正は巧みな防衛戦で武田軍を寄せ付けず、大きな損害を出した武田義信は撤退します。
1559年、今度は武田信玄自らが12,000の兵を引き連れて『 箕輪城 』を攻撃しますが落とすことはできませんでした。
武田信玄は、長野業正が生きているうちは『 箕輪城 』を落とすことはできないと嘆いたといいます。

1561年、業正が71歳で没した時、業正は子の業盛に、葬儀は不要、弔いには敵兵の首を一つでも多く並べよと遺言します。
さらに、決して降伏せず、城を枕に討ち死にせよといいました。
1566年、武田信玄は周辺の支城を攻め落としたうえで『 箕輪城 』を攻撃します。
もはやこれまでと観念した業盛は、業正の遺言通り『 箕輪城 』で自刃しました。
これにより、ついに『 箕輪城 』が陥落します。

徳川家康の関東移封にともなって『 箕輪城 』の最後の城主となった井伊直政

長野氏滅亡後、『 箕輪城 』は武田氏、織田氏、北条氏の支配を受けます。
1590年、小田原攻めで北条氏が滅亡すると徳川家康が旧北条領の支配者となりました。
武田信玄は関東各地の重要な城に重臣たちを配置します。
『 箕輪城 』に配置されたのは赤備で有名な井伊直政でした。

井伊直政は徳川四天王に数え上げられる功臣です。
西に信濃、北に越後を望む上野国のほぼ中心に位置した『 箕輪城 』の戦略的重要性を考えたうえでの配置でしょう。
井伊直政の率いる赤備は朱色の軍装で身を固めた部隊で、武田軍の名将山県昌景の部隊装束を引き継いだものでした。
実際、直政は旧武田氏の家臣を多く召し抱えており、武田軍団の系譜を引き継ぐにふさわしい武装といえるでしょう。
1598年、直政は南の高崎城に拠点を移したため、『 箕輪城 』は廃城となりました。

箕輪城 へのアクセス

・群馬県高崎市箕郷町東明屋

・JR高崎駅から群馬バスで30分、「箕郷本町」で下車後、徒歩20分

・入城無料
・無料駐車場有

公式サイト

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公式サイトは こちら

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