小松城 はどんなお城なの? 規模や構造について
東京都八王子市と神奈川県相模原市の県境にある、この『 小松城 址(こまつじょうあと)』は、宝泉寺(ほうせんじ)というお寺の裏山に築かれた、中世の山城(やまじろ)で別名、宝泉寺城(ほうせんじじょう)とも呼ばれています。
このお城に関する記録が残っていなかったり、宝泉寺の霊園を広げるために、城址のある山が切り崩されてしまったりなどしてしまったため、どれほどの規模と構造をしていたかについてはよく分かっていません。
現在残っている部分は、丘陵の尾根にある城の中央となる主郭(しゅかく)部分、主郭の南側にある、城の防衛拠点である曲輪(くるわ)と呼ばれる防御陣地と見られる跡、また、一定間隔ごとに敵の侵攻を食い止めるための空堀が多数と、土塁の跡、武将たちの会議の場として使われた、評議原(ひょうぎっぱら)という場所が残っています。
さらに、それらの防御施設だけではなく、周囲には小松川(こまつがわ)と穴川(あながわ)という二つの川があり、天然の水掘りの役割を果たしていました。
これらのことから、山や川などの自然を利用した、かなり大きな規模のお城だったのではないかと言われています。
現在お城のあった山はお寺の私有地になっています。また、ハイキングコースになっていて、歩きやすく整備され、空堀跡や曲輪、評議原を歩いて回ることができるのですが、一部の場所は立ち入り禁止になっているので注意しましょう。
小松城 は出城として築かれた? お城の歴史について
このお城が築かれた年代に関しては、やはり記録が残っていないので、定かではありませんが、平安時代が終わる1190年から、鎌倉時代最初期の1199年ごろに長井大善太夫広秀(ながいだいぜんだゆうひろひで)という人物が、このお城の近くにある、東京都八王子市の片倉城(かたくらじょう)の出城として築城したのが有力です。
その後時は流れ、戦国時代になると、今度は北条氏配下の城となり、城の改修や整備が行われたのではないかと言われています。
主な役割は、同じく北条氏配下の城である、八王子の片倉城と八王子城(はちおうじじょう)、神奈川県相模原市の山に築かれた津久井城(つくいじょう)などへの連絡中継地点として使われたのではないかと言われています。
1590年、豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、北条氏は劣勢を強いられました。
津久井城が落城寸前になると、片倉城の城主らと、この小松城の城主らが評議原にて今後の方針について話し合ったと言われています。
北条氏の滅亡後、このお城は廃城となり、宝泉寺の霊園拡大のために削られ、今ではハイキングコースとして、休日の晴れた日には散策を楽しむ人たちで賑わっています。
小松城 は城址だけじゃない! 歴史あるネコ寺に、神社、ダムもある!
城址へのハイキングコースの入り口は宝泉寺の敷地内にあるのですが、この宝泉寺というお寺はなんと、城ができる前にはすでに存在していたという、長い歴史があるお寺です。
また、『正嘉ニ年(しょうかにねん)』(1258年)と刻まれた板碑と、『応永十七年(おうえいじゅうななねん)』(1410年)と刻まれた石灯籠(いしどうろう)があり、この二つは市の有形文化財に指定されています。
ちなみに、板碑は一般公開されていませんが、石灯籠はお寺の敷地内にあるため、実際に見ることができます。
また、このお寺は地元の人たちからネコ寺として知られ、敷地内には、たくさんのネコたちがいます。
ネコたちはお寺で飼われていて、敷地内を自由に歩き回っているのですが、とても人懐こく、人を見つけるとすぐに寄ってきます。
しっかりと躾がされていて、お墓などにいたずらしたりはせず、また、用を足す際は、きちんと設置されているトイレで済ませるので、お寺はとても綺麗です。
ハイキングコースに入るとまずは城址があり、30分ほど歩くと、雨乞いの神事を行ったとされる、龍籠金毘羅宮(たつごこんぴらぐう)があり、さらに10分ほど歩くと、本沢ダム、別名、城山湖(しろやまこ)と呼ばれるダムに到着します。
小松城 址 へのアクセス
《所在地》
神奈川県相模原市緑区川尻4562
《交通機関でのアクセス》
JR横浜線【橋本駅】南口から神奈川中央交通バスに乗り、【かたくりの里】下車 徒歩約4分
JR横浜線【橋本駅】南口から神奈川中央交通バスに乗り、【若葉台七丁目】下車 徒歩約8分
JR横浜線【橋本駅】北口から神奈川中央交通バスに乗り、【小松橋】下車 徒歩約8分
《車でのアクセス》
首都圏中央連絡自動車道 【相模原IC】から13分
首都圏中央連絡自動車道 【高尾山IC】から15分
小松城 址 の駐車場情報
公式サイト
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公式サイトは こちら