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建築

「岸和田城」大阪の名城

『岸和田城』ってどんな城?戦国時代には多くの戦乱に巻き込まれる

岸和田城』は大阪府岸和田市岸城町にあった平城です(別名「千亀利城」)。
現在は千亀利公園(ちきりこうえん)として整備されており、園内にある天守・櫓・門は再建されたものです。

築城年ははっきりしていませんが、室町時代中期の応永年間(1394年~1428年)とされています。戦国時代の1500年代初期には管領(室町幕府ナンバー2)に就いていた細川氏、細川氏の臣下で後の三好政権を樹立させた三好氏の城となりました。
1558年頃に入城した三好実休(じっきゅう、三好政権を樹立した三好長慶の実弟)によって大規模な改修を行われ、三好領であった阿波国(徳島県)・讃岐国(香川県、三好一門・十河氏(そごう)の領国)・淡路国(淡路島)と京を結ぶ重要拠点となりました。
1500年代後期は織豊政権(織田信長、豊臣秀吉)方の城として発展し、1584年の小牧長久手の戦い(羽柴秀吉vs徳川家康)の際には羽柴方の城として反羽柴の攻撃を退けました(岸和田合戦)。

徳川御三家の1つ紀州徳川家の監視を担った岡部宣勝と『岸和田城』

江戸時代以降は1871年(明治4年)の廃藩置県までの約260年間岸和田藩の藩庁が置かれ、藩主には小出家(3代)、松井松平家(2代)、岡部氏(13代)が就きました。
岸和田城』は隣の紀州藩(藩庁は和歌山城、藩主は徳川御三家の1つ紀州徳川家、8代将軍徳川吉宗を輩出)と大坂城の中間地点にあったことから、和歌山城を監視する立場にもありました。とくに1640年に藩主となった岡部宣勝は和歌山城への備えとして城郭の整備を積極的に行ったと言われています。

深訪日本の城』には岡部宣勝が江戸城で徳川頼宣(徳川家康の十男、紀州徳川家の祖)と対面した際のエピソードが書かれています。
岡部宣勝は徳川頼宣の「貴殿が岸和田に入ったのはわれらの監視と聞いているが、どのような計策をもっているのか」という問いかけに対して「我ら小藩が大大藩の貴殿をおさえる力は無い、ただ足の裏に米粒がついたぐらいのことしかできない」と返しました。以降、岸和田藩と紀州藩は一戦も交えることはなかったといわれています。

園内には名勝に指定されている庭園がある!モデルは「八陣法」

岸和田城天守の手前には国の名勝に指定されている庭園があります。
この庭園は1953年に重森三玲(みれい、作庭家)によって設計・作庭されたもので、三国志で有名な諸葛孔明の「八陣法」をモデルにして造られたことから「八陣の庭」とよばれています。
この庭園は芸術上の価値及び近代日本庭園史において学術上の価値が高いと評価されています。
庭園は天守から見ることができます。

アクセス

〒596-0073 大阪府岸和田市岸城町9−1

南海電気鉄道南海本線「蛸地蔵駅」から徒歩10分

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