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建築

魚津城 天地人にも登場する悲劇の戦国時代

『 魚津城 』ってどんな城?南北朝時代から江戸時代まで続いた城

『 魚津城 』は富山県魚津市にあった平城(平地に築かれた城)で、別名、小津城または小戸城と呼ばれています。

1335年(建武2年)に椎名孫八入道によって築城されたと言われており、椎名氏の本拠地であった松倉城(富山県魚津市にあった城)の支城として築城されました。
室町時代には畠山氏(越中守護)、戦国時代には畠山氏を経て上杉氏(長尾氏)の城となるなど、その都度、魚津城は越中国(富山県)の重要拠点となっていきます。

その後、安土桃山時代には前田氏の城となりますが、江戸時代初期の一国一城令(江戸幕府が制定した1国につき1城という法令)によって魚津城は廃城となりました。
現在は本丸が魚津市立大町小学校、二の丸が魚津簡易裁判所の敷地となっていて、本丸跡地には石碑が建っています。

魚津城 の戦い!もう1日耐えれば全滅は免れた上杉守備兵たちの戦い

魚津城を舞台とする有名な戦いがあります。それが「魚津城の戦い」です。
この魚津城の戦いは、1582年3月11日から6月3日の約3ヶ月の間に上杉軍と織田軍とが魚津城を巡って攻防戦を繰り返した戦いです。

1582年の日本は、畿内(現在の京都、大阪、奈良)を抑えた織田信長が日本各地に兵を送り、天下統一へ向かっていた時期でした。
同年3月に甲斐国(山梨県)の武田氏を滅ぼした織田信長は、同月11日に家臣の柴田勝家や前田利家に命じて上杉氏の魚津城を囲います。

この時、織田軍4万に対して上杉軍は4千弱しかいませんでした。
戦力差で圧倒的に不利であった上杉軍でしたが、中条景泰を初めとする魚津城の守将13人は奮戦し、春日山城の上杉景勝にも助けを求めて3ヶ月もの間城を守ります。

※守将13人のうち中条を含めた3人は上杉謙信の代から仕えていた重臣

しかし、武田氏を滅ぼした織田軍が信濃国(長野県)や上野国(群馬県)から上杉氏の本拠地であった春日山城への進軍に動こうとしたため上杉景勝は魚津城を見捨てる形で退却します。
ただ、上杉景勝は魚津城に対して「和議を結んで城を明け渡して良い」という内容の書を城に送ったと言われています。

それでも、魚津城の将兵らは降伏することはせず、最後まで戦い1582年6月3日に守将13人は自害し城は落城しました。
魚津城が落城したのは6月3日ですが、この前日に大きな事件が起こっていました。

皆さんも知っている「本能寺の変」です。
この本能寺の変が魚津城を落とした織田軍に伝わったのは翌日の6月4日と言われています。
もし、もう1日耐えていれば魚津城の上杉兵は全滅しなかったかもしれません。

『 魚津城 跡』の紹介記事まとめ。所在地などの基本情報も掲載。

所在地
〒937-0866 富山県魚津市本町1-10-39

アクセス
・あいの風とやま鉄道「魚津駅」から車で7分
・魚津ICから車で5分

オフィシャル

とやま観光ナビ

ここまで紹介してきたように、『魚津城』は日本史も転換点である「本能寺の変」と少なからず関係している城です。
現在の『 魚津城 』は城跡として大町小学校の敷地内にありますが、かつてはこの地で大勢の人が亡くなったということを知っていいただけたらと思います。
また、城跡を見たい方は小学校に電話などで許可をとってください。

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