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「 長勝寺 」弘前城の裏鬼門の鎮護を担った津軽藩の菩提寺

弘前城築城と、それにともなって作り出された「禅林街」とは

戦国時代後期、南部氏から独立し津軽平野の支配権を握った津軽為信は、新しい城を築き本拠地としていた堀越城から移転しようと考えました。堀越城が軍事的に不向きと判断したためです。

為信が目を付けたのが鷹岡の地で、1603年から津軽為信は鷹岡に築城を開始します。

それまでの堀越城は、1336年に曾我貞光が築城したと伝わります。1584年には、津軽為信が堀越城の改修を行い大浦城から居城を移しました。その後、弘前城が築かれるまで津軽氏の居城となりましたが、翌年に為信が京都で客死したため、事業は2代藩主の津軽信牧に引き継がれます。

信牧は堀越城や大浦城の部材を用い急ピッチで築城を進めます。築城再開から1年1か月後、鷹岡城は完成。のちに城名を弘前城と変更します。

1610年、信牧は弘前築城と並行して菩提寺である「長勝寺」を種里から移転させます。
長勝寺が移された弘前城南方の地に、曹洞宗の33カ寺が集められました。並木道に沿って寺院が立ち並んでいることから、「禅林街」と呼ばれるようになります。

弘前藩の菩提寺となった 長勝寺 。2代藩主信牧ら歴代藩主の墓所あり

長勝寺は戦国時代の1528年、大浦氏の菩提を弔うため当時の本拠地だった種里につくられました。
大浦氏は為信の代になって急速に勢力を拡大します。

為信が本拠地を大浦に移したとき、長勝寺も大浦に移転しました。
1611年、信牧が弘前城を完成させると城の裏鬼門である南西の方角に「長勝寺」が移転します。

長勝寺をはじめとする禅林街は、弘前の城下町から堀や断崖、低湿地帯などによって切り離された場所だったため、弘前城の詰城としての機能も期待できました。

津軽氏は隣藩の南部氏と険悪な関係だったため、実戦的な城下町造りが意識されたのかもしれませんね。

長勝寺には象徴となる三門があり、国指定の重要文化財となっています。
ほかにも本堂や庫裡が重要文化財に指定されていますよ。

長勝寺の中にある御影堂には初代藩主津軽為信の木像が安置されています。
為信自身の墓は長勝寺にはなく、弘前市内の革秀寺にあります。

「 長勝寺 」の墓地移転工事で津軽承祐のミイラが発見され、世間を驚かせる

津軽藩の菩提寺である「 長勝寺 」には歴代藩主や藩主に近い人たちが葬られています。
1954年、長勝寺の墓地が移転することとなり調査や工事が行われました。

その時、墓地の地下7メートルの場所から茶殻が敷き詰められた棺に土葬された遺体が発見されます。

遺体は1855年に18歳で亡くなった津軽承祐のものと判明しました。
遺体は腐敗を免れミイラ化した死蝋の状態で、発見者を驚かせます。
死蝋は外気に触れず、腐敗菌が繁殖しなかったため死体全体が蝋状になる現象です。
学術調査が行われたのち、津軽家の要望で遺体は火葬され再埋葬されました。

長勝寺 はどこにあるの? 長勝寺 へのアクセス方法や施設情報のまとめ

住所
・〒036-8273 青森県弘前市西茂森1-13-8

アクセス
・JR弘前駅からバスで20分

料金

・拝観料 大人300円 小人250円
・禅林街全体の無料駐車場あり

詳しくは青森県観光情報サイトなどでご確認ください。

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