ぶらり散歩で身近な日本史

「松代城」最前線拠点の城

松代城」ってどんな城?武田氏や真田氏の下で約300年

松代城」は長野県長野市松代町にあった輪郭式平城です。
輪郭式とは、本丸を取り囲むように二の丸・三の丸が周りを囲む構造。

築城時期ははっきりとは分かっていませんが、1559年頃に武田氏の家臣・山本勘助が主君の武田信玄からの命で築城したのが始まりと言われています。築城当時の名前は「海津城」でした。

1582年3月の武田家滅亡、6月本能寺の変の後は、上杉氏が1598年の会津への転封まで支配下に置いていました。
江戸時代に入ると、松代藩(1616年頃までは川中島藩)の藩庁が置かれ藩主として森氏・長沢松平氏・越前松平氏・酒井氏・真田氏が入りました。
真田氏は1622年から1872年まで藩主を務め、1711年に幕府からの命で「松代城」に改名されました。
「松代城」になるまで、「待城」→「松城」と2度改名されています。

1847年善光寺地震(最大震度7と推測)が発生し、囲い塀、櫓、番所などが倒壊します。
その後1872年に廃城となっていましたが、1964年に城跡が県の史跡に、1981年には本丸を中心とした一部が国の史跡に指定されます。
そして、2004年からは太鼓門、堀、石垣、土塁が復元され現在の姿になりました。

松代城跡_foundjapan
松代城跡_foundjapan

「海津城」時代に対上杉氏の最前線拠点として活躍した「松代城

松代藩の藩庁として活躍してきた「松代城」ですが、武田氏の「海津城」時代には大きな戦で登場します。
その戦というのが、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が北信濃の支配権を巡って激突した「川中島の戦い」です。
川中島の戦いは、1553年~1564年の間に5回行われ、1番有名なのが4回目です。

戦いの開始直前の布陣は、武田軍は海津城に、上杉軍は妻女山(海津城から2kmほど西方にある標高400mの山)に敷きました。
この妻女山は、海津城だけでなく戦が行われた八幡原も見渡せる場所で、現在は展望台が置かれています。

戦いは武田軍が先に動き、夜中に海津城から武田別働隊が妻女山に奇襲するべく出陣しました。
武田軍としては奇襲によって驚いた上杉軍が下山したところに、武田信玄率いる本隊が攻撃するという作戦(啄木鳥戦法)でした。

しかし、上杉謙信はこの作戦を見破り、奇襲される前に下山し八幡原にいた武田本隊に総攻撃を仕掛けます。
武田本隊はなんとか持ちこたえ、奇襲に失敗し妻女山から下山してきた武田別働隊の加勢により上杉軍は撤退しました。

結果、武田氏が北信濃の支配権を手に入れましたが、多くの家臣を失いました。
両軍合わせて3万5千が参戦し、7千人ほどが死傷したと伝わっています。

海津城の近くには戦死した武田方のお墓があります。その中には信玄の弟である武田信繁、山本勘助などが葬られています。
現在は「海津城」時代の姿は観られませんが、「松代城」に来た際にはぜひお墓の方にも足を運んでみてください。

松代城跡_foundjapan
松代城跡_foundjapan
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「松代城」と「御城印」

お寺や神社へ”参拝した証し”として販売されている「御朱印」と同じように、お城に入城した証しとして販売されている「御城印」。
松代城」でも、この「御城印」が販売されています。

印刷された「松代城」のカラーが2種類、更に「六文銭」と「松代オリジナル六文銭」の2種類が用意されていて、合計4種類から選択できます。
1枚300円(税込)、「信州松代観光協会(平日)」や「松代観光案内所(土・日・休日)」にて購入できます。

松代城跡_foundjapan

「松代城」へのアクセス

・〒381-1231 長野県長野市松代町10

  • JR「長野駅」から川中島バスで「松代」バス停で下車。徒歩5分。
  • 長野電鉄長野線「須坂駅」から長野バス屋代須坂線で「松代駅」下車。徒歩5分。

オフィシャル

http://www.sanadahoumotsukan.com/facilities/facility.php?n=7

 

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