鎌倉時代に甲斐国の守護となった二階堂貞藤によって創建される
『 恵林寺 (えりんじ)』は山梨県の甲州市塩山小屋敷にある臨済宗妙心寺派の寺院です。
創建は鎌倉時代と言われていて、1330年に甲斐国の守護であった二階堂貞藤から所領の牧荘(まきのしょう、甲斐国の荘園)を寄進された禅僧・夢窓疎石(むそう そせき)が開山したのが始まりとされています。
現在は臨済宗妙心寺派の寺院ですが、創建当時は臨済宗円覚寺派の寺院として創建されました。
以降、『恵林寺』は甲斐国において臨済宗の中心地となり、室町時代には室町幕府3代将軍・足利義満により鎌倉禅林十刹に準ずる寺格を与えられました。
※十刹(じっせつ)・・・五山制度(臨済宗の寺格)に基づく寺格の1つ。上位から五山・十刹・諸山(しょざん)・林下(りんげ)となる。
1467年から始まった応仁の乱により『恵林寺』は荒廃してしまいます。
甲斐の虎・武田信玄により再興され甲斐武田氏の菩提寺
応仁の乱で荒廃した『恵林寺』ですが、1541年に20歳で当主となった武田信玄(この時の名は晴信)により再興が成されるようになり、臨済宗妙心寺派の高僧・明叔慶浚(みんしゅくけいしゅん)を住職に招きました。
そして、1564年に招いた快川紹喜の代には寺勢を強めることになり、武田信玄ならび甲斐武田氏の菩提寺となります。
一方、快川紹喜は武田家の政務顧問的な役割も果たしていて、武田家と美濃斎藤氏との間の外交関係にも関わっています。
また、快川紹喜は武田信玄の母・大井夫人の年忌や信玄自身の葬儀の際にも導師を務めました。
しかし、武田信玄の死から9年後の1582年に武田家は織田信長によって滅ぼされます。
この際、『恵林寺』は焼き討ちに遭い、快川紹喜は100人以上の僧侶とともに火定しました。
本能寺の変・天正壬午の乱を経て徳川家康が『 恵林寺 』を再興する
武田氏の滅亡後に『恵林寺』は織田信長によって焼き討ちにされてしまいますが、1582年の「本能寺の変」の直後に旧武田領(甲斐・信濃・上野)を巡って徳川・上杉・北条が争います(天正壬午の乱)。
結果、徳川家康は甲斐国を領することになりますが、この際、徳川家康は焼き討ちに遭った『恵林寺』を再興します。
以後、徳川家康は『恵林寺』の再興に力を入れるとともに武田家の旧臣達を重宝するなどして甲斐国を治めていきます。
武田家とくに武田信玄に畏敬の念を持っていたとも言われている徳川家康は5男に武田の名跡を継がせています(元服して武田信吉)。
そして、江戸時代の1672年には武田遺臣の子孫らが中心に武田信玄の百回忌が『恵林寺』で行われました。
5代将軍・徳川綱吉の時代にあたる1705年には甲府藩藩主の柳沢吉保により武田信玄の百三十三回忌が行われました。
『 恵林寺 』の見所
「三門」
この「山門」は山梨県の重要文化財に指定されています。
また、この門が建っている場所には、かつて織田信長の焼き討ちにより快川紹喜が火定した「三門」が建っていたといわれており、再建された三門には快川紹喜の遺偈(ゆいげ、禅僧が後人のために残した詞)が掲げられています。
「開山堂」
三門を潜った先にある「開山堂」は甲州市の指定文化財に指定されており、内部には『恵林寺』の創建・再興に尽力した夢窓疎石・快川紹喜・末宗瑞曷(まっしゅう ずいかつ)の三像が安置されています。
他にも、生前の武田信玄公の模刻した不動明王が安置されている「明王殿」、本尊の釈迦如来が安置されている「本堂」、武田信玄公と武田家家臣のお墓がある「武田信玄公墓所(毎月12日のみ公開)」があります。