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「 会津若松城 」戊辰戦争で戦場 今も会津若松のシンボル

名君として知られた保科正之と正之の遺訓によって幕府を守る会津松平家

戦国時代、会津は蘆名氏が支配していました。伊達政宗が蘆名氏を滅ぼして会津を手に入れますが、豊臣秀吉に召し上げられます。
かわって、会津を支配したのが蒲生氏郷でした。
その後、加藤氏の支配を経て、3代将軍家光の弟である保科正之が『 会津若松城 (鶴ヶ城)』の城主となりました。

以来、幕末まで会津藩松平氏(保科氏から改姓)の居城となります。
保科正之は家光の子、4代将軍家綱を補佐したことで有名ですね。
家光がなくなる間際、保科正之に家綱の補佐を頼んだことが良く知られています。
正之は家訓として「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在」という言葉を残したことで、幕末の会津藩の運命も定まりました。
また、正之は領民に対して公正で善政を施したことでも知られます。
かつて、長野県の高遠を支配し、山形に転封となったときには、高遠の領民の一部が正之をしたって山形に去りました。
会津に入った正之は産業の育成を図るとともに、飢饉時に貧農を救うための社倉を創設。
また、升と秤を統一して税を取り立てるときに公平になるように配慮します。

戊辰戦争の一部である会津戦争で戦場となり、傷だらけとなった 会津若松城

1850年代から60年代にかけての幕末動乱時、会津藩主松平容保は常に幕府を支える動きを見せます。

会津藩にとって重い負担になったであろう京都守護職就任などそんな役まわりでも引き受けたのは、先祖の保科正之の家訓があったからでした。
しかし、京都警備は会津藩だけでは負担が大きいのも事実。
そこで、新撰組を会津藩預かりとして採用し、京都の治安維持に当たらせました。
会津藩や新撰組は反幕府の志士たちを取り締まったため、薩摩藩や長州藩から大いにうらまれるようになります。

1868年、鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争が始まると、会津藩は旧幕府軍とともに薩摩・長州などの新政府軍と戦います。
徳川慶喜が江戸を無血開城すると決めると、会津藩主松平容保は会津に引き上げました。
江戸を制圧した新政府軍は仙台藩を盟主とする奥羽越列藩同盟と戦うため軍を北上させました。
新政府軍が目指したのは『 会津若松城 』。
これに対し、会津藩は新政府軍との和議をこころみますが、失敗…1868年4月に会津戦争が始まります。
会津若松城 』には新政府軍の激しい攻撃が加えられました。
会津戦争は1ヶ月に及び、『 会津若松城 』にも多数の砲弾が打ち込まれます。

戊辰戦争後の 会津若松城。現在は、天守閣が再現され公園として整備

会津藩降伏後、『 会津若松城 』は政府の管理下に入りました。
1872年に函館から東北地方にかけて旅行した外国人が解体される前の『 会津若松城 』を撮影しています。
会津戦争で傷ついた天守閣は1874年までに解体されました。
1930年、会津若松城跡は福島県の史跡に指定されます。

戦後になると、『 会津若松城 』の保存・整備が始まります。
1960年、本丸が現在の形に復元されました。
その5年後である1965年、鉄筋コンクリート製の天守閣が再建されました。
天守閣は「若松城天守閣郷土博物館」として一般公開されています。
1990年には茶室「麟閣」が本丸の元の場所に移築復元されました。
2001年には本丸内にあった干飯櫓と南走長屋を復元。

さらには、天守閣の屋根を赤瓦葺にして現存当時の面影を復元しようとしています。
今後も、御三階櫓が復元される計画がありますよ。

会津若松城 へのアクセス

・福島県会津若松市追手町1−1

・JR会津若松駅からバスに乗車。バス停「鶴ヶ城西口」下車で到着

・8:30~17:00

詳しくはHPなどでご確認ください。

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