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建築

松山城 址 比企城館跡群

松山城 ってどんな城?現在は城跡として国の史跡に指定される

松山城』は現在の埼玉県比企郡吉身町にあった平山城で、「武州松山城」や「武蔵松山城」とも呼ばれています。

築城年は1399年頃と言われ、平安時代からこの地に地盤を持っていた上田氏によって築城されました。
上田氏は武蔵七党の西党(現在の東京都多摩地域にいた武士団)の系統にあたる家系で、戦国時代には相模の北条氏の家臣として名が知られています。ちなみに秩父郡東秩父村御堂にある浄蓮寺には長く松山城の城主であった上田氏の墓があります。

その後、1590年の豊臣秀吉による天下統一および関東への徳川家康入国後には松平家広が城主となり松山藩が立藩されます。しかし、1601年の松平家広の死にともなう移封により松山藩は廃藩となり松山城は廃城となりました。
現在は天守や櫓といった建築物はありませんが、城址として整備され多くの空堀(水がない堀)が残されており(北条氏時代のものは少ない)、2008年には「比企城館跡群」の1つとして国の史跡に指定されました。

松山城 は戦国時代には武蔵国支配の重要拠点として激戦地だった

現在は城址となっている『松山城』ですが、戦国時代には武蔵国(現在の東京都、埼玉県、神奈川県東部)支配の重要拠点として関東の諸勢力による争奪戦が展開されました。
有名な戦いでは松山城風流合戦(1537年 扇谷上杉氏vs北条氏)、生野山の戦い(1563年 北条氏vs上杉氏)、小田原征伐(1590年 豊臣氏vs北条氏)などがあります。
ちなみに1590年の豊臣秀吉による小田原征伐では、松山城攻めの豊臣方の陣に前田利家、上杉景勝、真田昌幸、直江兼続といった有名な戦国武将がいたといわれています。

松山城 には築城や攻防戦にまつわる伝説が数多くある

武蔵国支配の重要拠点であった『松山城』には築城や攻防戦にまつわる伝説が数多く残っています。
築城にまつわる伝説は、清和源氏の初代・源経基(939年頃)や河内源氏(清和源氏の一流)の祖・源頼信(1029年頃)築城したというものです。

攻防戦にまつわる伝説もあります。
中でも有名な武将が登場する伝説に武田信玄の「もぐら戦法」があります。
これは1563年の城攻めの際に武田軍が城の地下に坑道を掘って爆発しようとした戦法です。
実際に行われたかは分かっていませんが、現地の調査で松山城は凝灰岩の岩山に建っていることが分かったため、実現は不可能ではないといわれています、
ほかにも敵軍に包囲された際に兵糧が尽きたことを悟られないように兵糧米で馬を洗った白米城伝説があります。

松山城 へのアクセス

〒355-0155 埼玉県比企郡吉見町北吉見298

東武東上線東松山駅から川越観光自動車バスの「鴻巣免許センター行き」に乗り「早見百穴」バス停で下車。松山城まで徒歩2分徒歩2分。
東武東上線東松山駅から徒歩25分。

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