『 片倉城 址』ってどんなお城なの?お城の規模や構造について…
東京都八王子市片倉町にある 片倉城 (かたくらじょう)は、室町時代に築かれたとされ、戦国時代に入ってからは北条氏の支城として機能し、八王子やその周辺を守るための防衛拠点としての役割を担っていたとされています。
このお城は北側に湯殿川(ゆどのがわ)、南側には兵衛川(ひょうえいかわ)という2つの川に挟まれた、標高110~144mの小比企丘陵(こひききゅうりょう)を利用して築かれた、平山城(ひらやまじろ)という分類のお城です。
お城の中心部である本丸は丘陵の東側にあり、敵を素早く発見できるように櫓台が置かれ、そのすぐ北側には住吉神社(すみよしじんじゃ)のある、腰郭(こしぐるわ)と呼ばれる防御拠点があります。
本丸の西側には容易に近づけないように空掘(からぼり)が掘られ、さらにその先には南に大きく張り出し、本丸の2倍以上の広さをもつ、二の丸が置かれています。
この二の丸の周囲にも空堀が掘られ、容易に近づくことができないようになっており、本丸と二の丸の間には、橋が架けられていたのではないかと考えられています。
太平洋戦争中に高射台が設置されたのと、区画整理によって、一部の遺構は失われてしまいましたが、現在は本丸跡と二の丸跡、空堀や土塁などが残っています。
北条氏の支城としての役割を担う!このお城の歴史について…
『 片倉城 址』については史料があまり無いので、どのような歴史を歩んだのか詳細は不明ですが、鎌倉幕府の重臣であった大江広元(おおえのひろもと)の子孫である長井時広(ながいときひろ)もしくは、大江師親(おおえのもろちか)が室町時代の15世紀ごろに築城したとされています。
築城後は代々、長井氏の居城として使われていたとみられます。
長井氏は関東管領(「かんとうかんれい」関東の政務を統括する役職)の職にあった、扇谷上杉氏(おうぎがやつうえすぎし)の家臣であったため、このお城も扇谷上杉氏の配下となっていましたが、戦国時代に入り北条氏が上杉氏を関東から追い出し勢力を拡大させるようになると、長井氏は北条氏の家臣となったため、このお城も北条氏の配下となりました。
北条氏の配下になった後は、お城の防備の改修が行われたとみられ、領地が隣接する武田氏や、上杉氏などの侵攻に備え、八王子とその周辺の守りや、近隣にある八王子城や滝山城との中継地点としての役割を担っていたと考えられています。
また、1569年に武田信玄は北条氏の本拠である「小田原」に侵攻し、小田原城を4日間に渡り包囲したのですが、うまくいかなかったため、武田軍は本拠である甲斐(「かい」今の山梨県)に撤退することになりました。
その際、北条氏はこれを神奈川県の三増峠(みますとうげ)で待ち構えることになりました。
北条氏の三男である北条氏照(ほうじょううじてる)と、五男の氏邦(うじくに)は、この片倉城から目的地の三増峠に出陣しました。
その後、このお城は1590年に豊臣秀吉によって北条氏が滅ぼされると廃城になり、その役目を終えました。
現在は「 片倉城 跡公園」として整備され、東京都の指定史跡になっています。
豊かな自然と彫刻に触れられる、憩いの公園! 片倉城 跡公園!
「 片倉城 跡公園」は1971年に城の遺構と、周辺の豊かな自然環境を保全することを目的に整備されました。
空堀跡や土塁跡を確認することができ、本丸跡と二の丸跡は、芝生が豊かな広場になっており、子供たちが走り回ったり、家族連れの人たちがシートを引いてお弁当を食べていたりします。
また、公園内は遊歩道があり、水路が引かれ水車が置かれています。菖蒲やカタクリ、ヤブカンゾウ、サクラなど季節ごとに様々な花々が咲き、見る人の目を飽きさせません。
カワセミやトンボ、トカゲ、ホタルなどの水棲生物たちの姿も見ることができるので、お子さんたちでも楽しめる場所になっています。
さらに、長崎県の「長崎平和記念像」や国会議事堂内の「板垣退助翁」などの作品を生み出し、文化勲章や紺綬褒章を受章した彫刻家、北村西望(きたむらせいぼう)氏の彫刻や西望賞受賞作品が展示されています。
城址、自然、芸術、色々なものを楽しむことができる公園になっているので、見学に訪れた際は城址だけではなく、公園全体を歩いてみてはいかがでしょうか。
「 片倉城 址」へのアクセス情報etc…まとめ
《所在地》
東京都八王子市片倉町2475番
《交通機関でのアクセス》
JR横浜線・京王線【片倉駅】徒歩6分
《車でのアクセス》
中央道【八王子西IC】から国道16号沿い、【片倉駅】入り口交差点そば、約20分
《駐車場》
駐車スペース15台。利用時間は9時~17時までですので、ご注意ください。
公式サイト
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