鎌倉時代から続く名門、戦国時代に北東北の雄となった三戸南部氏
南部氏は鎌倉時代に甲斐国に所領を持っていた御家人でした。
頼朝が奥州征伐を行ったとき、三戸南部氏の先祖にあたる加賀美遠光は頼朝にしたがって東北で藤原泰衡と戦い手柄を立てました。
その功績で、遠光の3男である南部光行が陸奥国糠部郡などを与えられます。
南部氏が勢力を急拡大させたのは24代当主の南部晴政の時代でした。
晴政は安東氏や工藤氏と戦って勢力を拡大。
北は下北半島から南は北上川中流域、西は津軽平野まで領土を拡大します。
「三日月の丸くなるまで南部領」といわれ、所領横断に何日もかかるほど広大な領土があると評判となりました。
子のいなかった晴政は石川高信の子で甥の信直を養子として後継者とします。
後年、晴政と信直が対立し南部氏が乱れたすきに、津軽平野で大浦為信が挙兵。
津軽の南部領を制圧し、津軽為信を名乗りました。
南部信直は交通の要衝である不来方城を改修し『 盛岡城 』を築城した
1590年、南部信直は豊臣秀吉に従属することを決断。
秀吉は信直に糠部、岩手など5郡の所領を安堵しました。
秀吉の東北統治政策である奥州仕置きに納得しなかった南部一族の九戸政実は九戸城で反乱を起こしました。
信直は秀吉の支援を受けて反乱を鎮圧します。
このとき、秀吉によって派遣されていた蒲生氏郷や浅野長政は、南部氏の所領全体をおさめるには三戸よりも南に居所を作ったほうがいいと信直に助言。
これを受けて、信直は不来方の地に本拠を移します。
不来方は北上川と中津川の合流地点にある交通の要衝で、南部領の中心とするにふさわしい場所でした。
信直はもとからあった不来方城を大改修。大規模な近世城郭を作り上げました。
信直は不来方の名を盛岡と改名します。
これは、「盛り上がって栄える岡」となって欲しいという願いが込められた名前でした。
『 盛岡城 』の築城と同時に城下町も整備され、現在の盛岡市の土台が作られます。
信直が築いた 盛岡城 は、東北では珍しい総石垣の美しい城だった
信直は嫡男の利直に盛岡城築城の総奉行を命じました。
工事は1598年から開始されます。
『 盛岡城 』は現在の盛岡城中心部にあった花崗岩の丘陵に造られました。
構造は、本丸・二の丸・三の丸からなり、それぞれが石垣を持つ総石垣の城です。
関東以北では土の城が主流だったことを考えると、『 盛岡城 』はかなり異質で、当時の最先端技術である石垣をふんだんに使った姿は、かなりの威容を誇ったことでしょう。
本丸には石垣の天守台がつくられましたが、南部藩は幕府に遠慮し、天守閣を作りませんでした。
のち、天守台には三層櫓がつくられ、天守閣の代わりとなります。
明治維新後、『 盛岡城 』は廃城とされ建物は解体・移築されました。
現在は盛岡城跡公園(岩手公園)となっています。
『 盛岡城 』はどこにあるの?根城へのアクセス方法や施設情報のまとめ
《住所》
・岩手県盛岡市内丸1-1-37
《アクセス》
・JR盛岡駅からバスで約10分。「盛岡城跡公園」バス停で下車
・JR盛岡駅から徒歩約20分
《開館時間》
・7:00~20:00(駐車場の営業時間)
《休館日》
・無し
盛岡城 の駐車場情報
公式サイト
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公式サイトは こちら