鳴門 今日のぶらり散歩は徳島鳴門
かつて阿波に入る玄関口で撫養街道を通って一番札所に向かうお遍路さんも多く、撫養街道は大変な賑わいだったそうです。明石大橋開通以降は街道を通る旅人もいなくなりましたが、当時に思いを馳せながら町の文化や歴史に触れる24Kmのさんぽです。
スタートの 鳴門 駅は徳島県では最北端の駅。大毛島は徒歩では渡れないので、バスまたは渡し舟を利用します。電車、バス共に1時間に2-3本程度ですので、移動には注意が必要です。
鳴門 散歩スタート
A. 鳴門 駅
駅前には駅前足湯「ふろいで〜」電車の待ち時間に気軽に利用できます。
観光案内所も併設されており、複雑なバス路線の相談ができます。
B.土佐泊
鳴門 駅前から8分、小鳴門橋を渡ってすぐの土佐泊で下車、5分ほど坂を降りると穏やかな内海。かつて、土佐と京都との行き帰りの船が寄港していたので土佐の泊の名がついたと伝えられています。1000年以上前から今日まで、四国の海上交通の要地となっています。
C.潮明寺
内陸に3分ほど歩くと、細い路地に通り過ぎてしまいそうなほどひっそりと佇んでいます。
「阿波水軍」で知られる森志摩守の菩提寺で、蜂須賀氏の阿波入国まではここ土佐泊(とさどまり)が森家の本拠地だったそうです。
紀貫之の歌碑
承平5年(935)平安時代の歌人「紀貫之」が土佐の国司(こくし、県知事的な役職)の任を終え都へ途中土佐泊へ寄港したことが土佐日記にしるされています。
<土佐泊に寄港したときに詠んだ歌>
年ごろを 住し所の 名にし負えば
来寄る波をも あわれとぞ見る
『ここは以前何年も住んだ所と同じ名を持っているから、懐かしくて寄せてくる波さえもしみじみとした思いで見ることだ』
D.小宰相局の墓
潮明寺から湾にでて穏やかな内海を5分ほど歩くと鳴門の海が見える高台の場所にひっそりと、宮中一の美女として知られた小宰相の墓があります。
小宰相は源平合戦で討死した平通盛の妻で、一ノ谷合戦で夫の平通盛が討取られことに悲しみ、海に身を投げました。身篭っていたことから子授けに効験があると言われています。
E.妙見神社
妙見神社は150mの石段を登った妙見山山頂にあり、鳴門市街が一望出来ます。
平安時代には北辰(北極星)信仰の影響で妙見社として祀られ、1830年には妙見神社として再建されました。
観月殿
神社の境内の崖の縁に作られた吹き放ちの社殿をいい、多くは絵馬殿を兼ねています。
観月殿からは鳴門市街が一望できます。
F.撫養城(トリーデなると)
撫養城は標高60mの妙見山山頂に1525年には存在したといわれ、その後1585年、四国征伐により蜂須賀家政が阿波(徳島県)の新領主となり、9カ所に城塞を設けたうちの一つ。1638年の一国一城令により廃城となりました。
現在の建物は撫養城をモチーフに、元々は天守閣がなかった城址に模擬天守がイメージで作られています。
G.撫養街道
海運業として栄えていた、当時の街道の繁栄を彷彿とさせる歴史的建造物。
肥料商と書かれた商店の跡。恐らく北前船で北海道から運ばれた魚脂など交易品を扱う商店でしょう。
H.文明橋
撫養川はかつて港として大きな枠割りを担っていたため、1870年になり木造橋として架設されるまでは渡し船が行き来していました。かつてはこの橋周辺までが撫養港の範囲で、文明開化の受け入れ口として繁栄したことから文明橋と名付けられたそうです。
I.阿波神社
祭神の土御門天皇は、後鳥羽天皇の第一皇子にあたり、承久の乱の後、父後鳥羽上皇は隠岐へ、弟順徳上皇は佐渡へ流され、土御門上皇(つちみかどてんのう)は、自ら土佐そして、阿波へ遷り、当地で崩御されました。
1940年(昭和15年)に紀元2600年事業として、それまでの丸山神社から社名を阿波神社に改め、造営を開始、延べ7万人の勤労奉仕によって1943年(昭和18年)に竣工しました。四四国で唯一の官幣大社への昇格が内定していましたが、戦後に社格制度が廃止されたため叶いませんでした。
広々とした境内はきちんと整えれれて清々しく、社殿は山を背後に従え官幣社の佇まい。シーンと静かで気持ちが引き締まります。
鳴門 散歩ルートのおさらい
A.(スタート)鳴門駅駅
↓ 3300m
B.土佐泊
↓ 250m
C.潮明寺
↓ 450m
D.小宰相局の墓
↓ 3900m
E.妙見神社
↓ 70m
F.撫養城
↓ 750m
G.撫養街道
↓ 70m
H.文明橋
↓ 7600m
I.阿波神社
↓ 7700m
H.(ゴール)鳴門駅
合計24Km(施設内の移動は含みません)