「 中城城 跡(なかぐすくじょう あと)」は沖縄県中頭郡北中城村・中城村にある城跡で、城としては連郭式の山城でした。
もともとは地方豪族のグスク(城)として築城された「 中城城 」
「中城城」が築城された時期ははっきりとは分かっていませんが、14世紀後半頃(日本は室町時代)と言われております。
当時、この地域を治めていたのは先中城按司(さちなかぐすく あじ)一族で、数世代にわたって現在残っている南の郭・西の郭・一の郭・二の郭を築きました。
※按司(あじ)・・・琉球諸島・奄美群島に存在した称号および位階。王制の成立(1429年の三山統一)以前は地方支配者の称号として、以降は王号に次ぐ称号として王族の分家や地方豪族に与えられた。
その後、1440年に読谷村(よみたんそん)の座喜味城(ざきみぐすく)から移ってきた護佐丸盛春によって三の郭・北の郭が増築され、現在の姿になったといわれています。護佐丸は1458年に王府軍に討伐され、中城城は首里王府の直轄地となります。
江戸時代に薩摩藩の従属国となる!幕末にはペリー提督が来訪
護佐丸盛春の討伐後、首里王府の直轄地となった「中城城」は中城王子(なかぐすくおうじ、後継者)の領地となります。
また、江戸時代の「中城城」には番所が置かれ(一の郭)ました。一方、1609年に琉球王国は日本・薩摩藩の攻撃にあい降伏します。琉球は抵抗せずに降伏します。
降伏後は薩摩国の従属国になりつつ、清朝への冊封体制も維持し両属を保ちながら独立国家の体制をとることになります。
ちなみに薩摩藩から送られていた役人は、清朝からの使者が来ると存在を知られないために「中城城」に身を隠したとも言われています。そして、1853年には日本に開国を迫ったペリー提督が来日し、5月には沖縄本島にも訪れます。
この際、ペリーは「中城城」の城壁や門など、建築・土木技術の高さに驚愕したと言われ、「中城城」に関する詳細な報告書(測量調査など)を作成したと言われています。
第二次世界大戦の戦禍に巻き込まれるも綺麗な状態で残った石積み
明治時代の1879年に廃藩置県が行われると琉球藩が廃止され沖縄県となります。この際、「中城城」には”村役場”が置かれました。
しかし、1945年に太平洋戦争末期の沖縄戦で沖縄は壊滅状態となります。この影響で首里城(地下に陸軍司令部があった)をはじめとした琉球王国の建造物などが焼失してしまいます。
「中城城」も村役場などが焼失してしまいますが、他の城よりも被害が少なかったことから石積みが綺麗に残りました。
石積みには野面積み(南の郭)・布積み(一の郭、二の郭)・相方積み(三の郭、北の郭)といった種類が観られます。
1972年には国の史跡に指定(日本への沖縄返還の日)され、2000年には首里城などともに「琉球王国のグスク及び関連遺跡群」として世界遺産に登録。
発掘調査も行われていて、13世紀から15世紀頃の中国製陶磁器、グスク土器、矢尻や刀といった歴史的に貴重な物も出土しています。
「 中城城 」へのアクセス
・〒901-2314 沖縄県中頭郡中城村泊1258番地
・那覇空港より沖縄自動車道経由 北中城ICか西原ICから約30分
《オフィシャル》
・https://www.nakagusuku-jo.jp/