奥州街道の要衝にあり、伊達政宗と戦った畠山氏の居城、 二本松城
室町時代初期、幕府から奥州探題に任命された畠山高国が居館を建てたのが「 二本松城 」の始まりです。
畠山氏7代当主、畠山満泰が「 二本松城 」を築城しました。
戦国時代後期、伊達政宗が伊達家当主となると、急速に勢力を拡大します。
政宗は嫁の愛姫の実家である田村家と共に福島県方面に出兵、畠山氏に圧力をかけます。
二本松城主畠山義継は、政宗の父である輝宗の仲介で政宗との和睦を図ります。
ところが、義継は交渉の途中で輝宗を拉致、「二本松城」に連れて行き人質にしようとしました。
政宗は義継を追跡し「二本松城」に入る前に捕捉、父もろとも義継を討ち取ります。
政宗は父の弔い合戦と称して城を包囲しました。
「 二本松城 」では、義継の子である国王丸を跡継ぎにたてて政宗軍に抵抗、結局政宗は「 二本松城 」を落とすことができませんでした。
翌年、再び政宗は「二本松城」を囲みます。
この時は内通者も出たため「二本松城」は開城を決断、二本松畠山氏は滅亡し、伊達氏の支配下に入りました。
現在の 二本松城 を築いた江戸時代の二本松藩主丹羽光重と「戒石銘碑」
畠山氏滅亡後、「 二本松城 」は伊達氏の支城となっていました。
豊臣秀吉による小田原攻めののち、政宗は現在の福島県にあたる領土を秀吉に没収されます。
「二本松城」は伊達氏の支配から上杉氏、蒲生氏、加藤氏の支配を受けます。
1643年、加藤氏の改易に伴い「 二本松城 」に丹羽光重が入りました。
1644年、「 二本松城 」に入った丹羽光重は城や道路、城下町の大規模整備を実施します。
現在、私たちが目にする「 二本松城 」の石垣はこのときに修築されたものです。
『 二本松城 』は別名、白旗城、霞ケ城ともよばれます。
城の構造は本丸を城郭の片隅に配置する梯郭式平山城で、本丸は山の頂上にあり、そこから3尾根が伸びています。
比較的防御が薄い西側には寺院が配置され、西側の防備を強化しました。また、城内には7代藩主丹羽高寛が藩士への戒めとして刻まれた「戒石銘碑」があり、藩士に対し身を慎むよう訓戒する内容が刻まれています。
幕末、 二本松城 は再び戦場となり「二本松少年隊」が犠牲となった
幕末動乱の時、仙台藩を中心とする東北地方や新潟県の諸大名は奥羽越列藩同盟を結成、二本松藩も同盟に加わります。
江戸を無血開城させた新政府軍は東北に進撃。奥羽越列藩同盟と戦闘になりました。
この時二本松藩の兵は福島県南部の要衝である白河口防衛の為『二本松城』から出陣していました。
新政府軍は別動隊を組織、手薄になっていた「二本松城」を急襲します。
「二本松城」を守備していたのはわずかな藩兵と12歳から17歳までの少年兵からなる部隊でした。
戦いは奇襲に成功した新政府軍の有利のうちに展開、虚を突かれた「 二本松城 」はわずか1日の戦闘で陥落。
藩主の丹羽長国は米沢に脱出しました。二本松少年隊にも戦死者が出ました。
ちなみに、二本松少年隊と名付けられたのが後日のことで、当時は幼年隊と呼ばれていたようです。
この戦いで多くの建物が焼失しましたが、1982年の修復工事で箕輪門と二階櫓、多聞櫓を、1993年から1995年の修復工事で本丸の石垣や天守台を整備していますので、ぜひ、見てくださいね。
二本松市のもう一つの観光名所…それが「二本松の菊人形」です
福島県二本松市の霞ヶ城公園を会場に、例年10月から11月下旬まで開催されているのが「二本松の菊人形」です。
菊人形の数がおよそ130体、菊株数3万株があなたの訪問を出迎えてくれます。
1955年から菊人形の祭典が開催され、日本最大級規模で毎年20万人ほどが訪れます。
「二本松の菊人形」は、日本最大の菊の祭典であり、見る人を魅了し続けています。
二本松城 跡 へのアクセス
・福島県二本松市郭内三丁目
・JR東北本線「二本松駅」から徒歩20分程度、入り口から本丸までは徒歩でおよそ15分程度です。
・東北自動車道「二本松IC」より国道459号線。
・入城無料
二本松城 跡 の駐車場情報
公式サイト
お出かけの際には必ず公式サイトを確認してください。
公式サイトは こちら