駿河の今川氏が家臣朝比奈氏(あさひな)に築かせた 掛川城
文明年間、駿河の今川義忠(よしただ)は重臣の朝比奈泰煕(やすひろ)に命じて、逆川北沿岸にある天王山に拠点を築かせました。
これが掛川古城と呼ばれる城で、永正9年(1512)頃に南西尾根続きに『 掛川城 』が築かれました。
永禄11年(1568)、甲斐の武田氏と三河の徳川氏の侵攻を受けて今川氏真(うじざね)は本拠地である駿府館を捨てて、朝比奈康朝の守る『掛川城』に逃げ込みます。
『掛川城』は徳川勢に包囲されましたが、泰朝は半年以上ももちこたえ、氏真の助命を取り付けて開城に応じました。
徳川氏の抗争拠点と山内一豊(やまうちかつとよ)の改修工事
朝比奈泰朝が城を明け渡した後、徳川家康は石川家斉(いしかわ いえなり)・康通(やすみち)父子を城代に置き、『掛川城』を武田氏との抗争の拠点としました。
やがて武田氏が滅び、徳川氏が関東に移されると、石川氏もこれに従って上総成戸(かずさなると)へ移り、『掛川城』には豊臣秀吉の家臣である山内一豊が5万1000石(のち5万9000石)で入りました。
一豊は、竜頭山に築かれた中世城郭であった『掛川城』を、本丸を中心に四方に曲輪群を巡らし、石垣や天守を築き、さらに山麓の城下町を惣構で囲った織豊期の梯郭式平山城(ていがくしきひらやましき)に大改修しました。現在の縄張はこの時期に完成したものといわれています。
一豊は秀吉死後、家康に接近し、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍に属して、戦巧で土佐一国を与えられて高知へ移ります。その後、『掛川城』には徳川氏の親藩・譜代大名が入城します。
掛川城 の二の丸御殿
二の丸御殿は、藩主の公邸、藩の役所、公式式典の場などに利用されていました。江戸時代後期の再建で全国4カ所しか現存していない貴重な城郭御殿です。
【参考文献】・週刊『日本の城』 2014年2月18日発行 編集人 松岡和子
『 掛川城 』へのアクセス
◎〒436-0079 静岡県掛川市掛川1138-24
◎JR東海道本線「掛川駅」から徒歩およそ8分
◎東名高速「掛川IC」から北へおよそ5分
≪オフィシャル≫
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