安土城 は、日本の織田信長が築城した天守を持たない平山城です。現在の滋賀県東近江市に位置し、水を利用した堀や石垣、塀などの防御施設が特徴です。また、周囲には水路網が張り巡らされ、水門や水路により城内外の水位を調整していた。豪華絢爛な装飾品や障壁画も多数見られ、織田信長の嗜好や趣味が窺える。安土城は天正伏見地震により被災し、天守は焼失しているが、石垣や堀、遺構などは現存し、国の特別史跡に指定されています。
安土城 跡は、なぜ「城跡」と称されるようにたったのかを見てみよう
「城跡」とは、書いて字の如く”城の跡地”のことです。城の跡地ということは、現在はお城が存在しません。
戦国時代に敗れて城を奪われ資材のために壊されたお城や、江戸時代の一国一城令により廃城となったお城や、第二次世界大戦により焼き払われて焼失したお城など、全国には数多くの城跡があります。
中でも、「安土城」は16世紀の天下人であった織田信長によって建てられました。しかし、重臣明智光秀の謀反(本能寺の変)により安土城が焼き払われ、現在は城跡として登録されています。
安土城 跡を訪れる前に、織田信長についての基礎知識を押さえよう
信長は、尾張の那古野城に生まれ、幼いころは好奇心旺盛で、日常的に奇行に堪えない子どもであったため「尾張の大うつけ」と呼ばれていました。
そんな大うつけ者ですが、父信秀の後を継ぎ織田家の家督を継いだ後に、尾張の地方領主となります。
当主となった後は、まず隣国駿河国の戦国大名今川義元(計2.5万軍)に、たった3000軍で打ち勝ってしまいます。
この戦いで全国に名前を知らしめた信長は、全国統一へ歩むことになります。
天下人織田信長が、近江国に安土城を建てたのは一体なぜなのか
先ほども記した通り、信長は全国統一事業を始めるにあたり居城については、大変関心を持っておりました。
そのため、信長は生涯でたくさんの城に入城しております。
中でも有名な城は、那古野城、岐阜城、小牧山城、清州城といったところでしょうか。
信長は、全国統一にあたり、少しでも政治の中心地「京都」に近い立地に城を設けようと思っておられました。
当時の政治の実権は、京都の室町幕府であり、権力を持っている天皇の御所も京都にあったためです。
そのため、信長はそれまで居城としていた岐阜城から、安土城へと移り住む決心をしました。
実際の「安土城」を訪れると……
安土城は、標高約200mの小高い山に天守閣があったため、天守閣にたどり着くまでに、たくさんの石段を登ることになります。
その数は、なんと410段!石段のも、現在の階段とは違い、段差がまちまちであるため、非常に上りづらいです。
しかし、このような登りづらさが敵陣から守る仕組みでありました。そのため、安土城では入城後に、無料で木の杖をお借りすることができます。
平城の天守閣とは違い、200mを登り切り、体力を消耗した後に訪れる天守閣なので、到達した際には小さな達成感を味わうことができます。
安土城 へのアクセス
住所:近江八幡市安土町下豊浦
交通:公共交通機関 JR琵琶湖線 「安土」 下車 徒歩 25分、車 名神竜王ICから20分