湯島聖堂 は、JRお茶の水駅から徒歩2分、都心のビルが建ち並び、車が行き交う本郷通り沿いにあります。日本の学校教育の礎を築いた 湯島聖堂 をご紹介します。
「 湯島聖堂 」とは”孔子廟”
「 湯島聖堂 」とは徳川綱吉によって建てられた”孔子廟” です。孔子は今から2500年位前に中国で活躍した、儒教という思想・信仰の創始者です。
孔子を師と仰ぎ儒教を重んじる学校や私塾が、孔子を祀った霊廟を建てました。孔子廟は中国大陸には勿論のこと、日本や朝鮮半島、台湾、ベトナム、マレーシアなどに数多く建てられています。
日本では、 湯島聖堂 の他にも、栃木県の足利学校や佐賀県の多久聖廟、長崎の孔子廟などがあります。
「聖堂学問所 」とは”日本の学校教育発祥の地”
林羅山が上野忍ヶ岡の私邸に建てた弘文館を、1690年、徳川五代将軍綱吉が儒学の振興を図るために現在の地に移した私塾。江戸時代の幕府による教育の中心です。1797年にはここに幕府直轄の学問所、昌平坂学問所が開設されました。
明治維新により学問所は、新政府の管轄となり、大学校と呼び名を変えながらも学問所の役割を継続させていました。明治4年に文部省が設置されるとその役割を終えることとなります。その後は現在の東京国立博物館の前身となる日本で最初の博物館、そして図書館の前身である書籍館、現在の筑波大学、お茶の水女子大学の東京師範学校、東京女子師範学校となり日本の学校教育の礎を築きました。
1922年に国の史跡に指定されますが、翌年の関東大震災で入徳門と水屋以外は消失してしまいます。昭和10年に入って築地本願寺などを手がけた建築家、伊東忠太の設計により再建されました。現在は、再建を主導した公益財団法人斯文会により保存、管理されています。
「 湯島聖堂 」と「湯島天神」は関係ありませんがどちらも”学問の聖地”
湯島聖堂 は、儒学の祖である孔子を祀った廟であり、儒学を重んじる人々が重んじる場所であり、国が儒学を推奨していた時代に儒学を学ぶ学び舎でもありました。
そのため現代でも、学業成就を願う人たちが訪れる場所となっています。
神社ではなくて史跡なのですが、門のそばに絵馬が奉納されていたり、御朱印をいただけたりするので、神社だと誤解している人もいるようです。
さらに、同じ文京区湯島に「湯島天神」という神社があるため、ますます混同しがちです。
「 湯島聖堂 」の見どころ
関東大震災で消失した建物は、昭和10年(1935)伊東忠太設計により、鉄筋コンクリート造りで再建されました。そして現在の湯島聖堂は、文化庁による保存修理工事が昭和61年度(1986)から行われ、平成5年(1993)三月竣工しました。
レトロな斯文会館
9時半から午後5時(冬は午後4時)まで開放されていて自由に出入りできる門は、本郷通り沿いの西門と聖橋門、外堀通り沿いの正門の3カ所。
まずは正門から入ってすぐのところにある斯文会館に寄って、お守りや絵馬をチェック。
神社ではありませんが、合格祈願や大願成就の絵馬を奉納することができます。
杏壇門
湯島聖堂は再三火災にあい、その度に再建されてきた。現在の建物は、関東大震災で 入徳門・水屋を除いて類焼し、1935年にコンクリート造で再建されたものです。
1799年、十一代将軍徳川家斉が、明制にならって、黒漆を塗り、屋根に銅瓦をふいた荘重な様式を踏襲しています。仰高門から入徳門へとすすみ、石段をのぼって杏壇門を入ると、東西に石畳を敷き詰めた回廊があり、正面に大成殿が現れます。
迫力ある大成殿
湯島聖堂の本堂ともいうべき大成殿は間口20メートル、奥行14.2メートル、高さ14.6メートル。
建物としてはそれほど大きくはないですが、銅板葺きの屋根が青緑色に輝いていて、日本の神社仏閣とは一線を画す、中国のお寺のような雰囲気。
目の前に立つと建物全体がこちらに迫ってくるような迫力があります。
よく見ると屋根のあちこちに、孔子のような聖人の徳を感じて姿を現すという「聖獣・霊獣」たちの姿があります。
楷樹と孔子銅像
高さ4.5m、重量およそ1.5トンという、巨大な孔子像。
台座の上に乗っていて一段高くなっているせいもあって、想像以上に迫力があります。
1975年(昭和50年)に中華民国台北ライオンズクラブから寄贈されたものだそうで、世界で一番背が高い孔子像になるのだそうです。
孔子像のすぐ近くには、孔子ゆかりの「楷樹」という木が植えられています。
枝や葉が整然としているので、書道でいう楷書の語源ともなったといわれています。