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建築

「秋元城跡」千葉県君津

北条と里見の勢力争いの中あわやお家断絶の危機に晒された秋元氏

千葉県君津市にある「秋元城跡」は、鹿野山の東側の尾根、小糸川との間にあります。
戦国時代の山城で、里見氏の家臣であった秋元義正が、里見義豊の命により1508年に築城したとされています。

秋元氏は1225年頃に下野国宇都宮泰業が上総国周准郡秋元荘に居を構えたことから、後に師朝の時に秋元と名乗り始めました。
泰業の父、頼綱は、日本三大歌壇の一つ、宇都宮歌壇の創始者でした。

里見氏は房総半島の南半分である安房国を拠点として、優れた水軍により東京湾を隔てて三浦半島や伊豆半島まで勢力を伸ばしていた時代もあり、鎌倉文化の名残が安房の各地の墓の中に見られます。

しかし、三浦半島に台頭した北条氏により、1564年第二次国府台の戦いで、5月池和田城 (市原市鶴舞付近、多賀氏)、6月『秋元城』、10月里見氏の拠点の久留里城 (木更津市) が攻め落とされ、時の秋元城主であった、義正の子、秋元義久自害しました。

城マニアの中でリピする人続出〜天守閣もないのに秋元城の魅力とは

天守のある豪華絢爛な城を見るのも一つの楽しみ方ですが、城址を見るのも、趣きがあります。

秋元城』の遺構は良く保存されていて、城マニアの間ではかなりの高評価でファンが多く、山肌に張り巡らされた曲輪、高さのある虎口、岩盤を切って造った堀切、千畳敷、西向三段、ほか見どころ満載です。
縄張りの構成から、天守の位置、当時の房総半島での力関係まで想像できるといいます。敵方に火を放たれ、焼き討ちに遭い、親族は流浪し、再建する者もない….。

その堅固な造りから、繁栄のほどが思われ、その滅亡によっていったいどのくらいの人々が散らされて行ったのでしょうか。

戦国武将の生き様が現代の我々に教えること〜秋元城陥落に思う

今も秋元家で伝わる伝承として、『秋元城』は弟の家系が継ぎ、兄は秋元の地を出て、江戸城で徳川家康の老中として仕えたとの伝承があるそうです。歴史に現れる秋元景朝は1541年に秋元の地を去り、深谷上杉氏に仕えたと出てきます。秋元氏が仕えていた主君の里見氏は内々で覇権争いがあり、本家と分家の争いや敵討ちが行われていました。

そこに北条氏という敵の侵略により、存続が危くなった秋元氏には、城陥落の20年前に、さらに勢力を持つ親類を頼って移り住もうとする動きがありました。
戦いにおいては逃げるというのも戦略の一つであり、状況を素早く分析して危険を回避し、体勢を立て直して新たに立ち向かうのもアリだとの教訓をくれる気がします。
城陥落後、深谷を目指した末裔からは、小林一茶とも親交のあった俳人、秋元双樹が出ました。

地元の文化財保存ボランティアが活発化しアクセスしやすくなっている

【所在地】〒292-1154 千葉県君津市清和市場

車でのアクセスの場合は、君津ICから92号線鴨川方面へ大野台経由で15〜20分ほどです。

内房線利用の場合は、君津駅下車し、南口から1番のりばのバスで周西線に乗り、鈴木病院前経由で終点中島バス停で下車、コミュニティバスの中島・豊英線に乗り換え、田中台バス停から徒歩1分です。秋元小学校と秋元郵便局が目印です。

以前は蛇が出る藪で立ち入れない場所だったそうですが、近年、地元でも保存活動が盛んになってきていて、有志らにより雑草が刈り取られたり、入り口付近に駐車場ができたりして、アクセスがしやすくなってきています。
また、水源が豊富で、千畳近くにも豊富な水量の井戸があったと推測されていて、雨が降った後のように道が湿っている場合があるので、足場をしっかり固められる装備で行かれることをお勧めします。

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